-My Lovely Red Hair-

-城健太朗のブログ-

抗うこと、

抗うこと、と題して書こうとしているわけだが、

改めて考えみると、具体的な例を示せないことに気づいた。

 

自分は抗っている。

だから書けるだろうと思い、それ故に画面の前にいるのだが、
抗うこと、それは一体、どういうことなのだろうか。

それは、本当に手に入れたいものを諦めないこと、だと思う。

 
「じゃあ、手に入れたいものはなんですか?」

と聞かれても簡単には説明出来ないし、簡単には教えてはいけないことのように思う。

自分のケツの穴を見せるようなものだからだ。

 

私は色んなものが欲しかった。みんなもそうだと思う。

そして分類され、削ぎ落とされ、精査されてゆく。

または諦め、能力不足、過大妄想、気の迷い、非現実的、
そして一時も待たず襲いかかってくる現実の波。

現実の波に対処している間に歳を重ねて老いていく自分。


大事なことを忘れていた。
なんの為に抗うのかということだ。

 

そんな必要のない人生のほうが大多数だと思うし、

現実社会で、現実的な幸せを得るためには、優先順位は決して高くない。

 

私は表現がしたかった。
表現している人々や物事に心動かされ、心打たれることが多かった。
だが表現で喰っていくんだという気は微塵もなかった。
幾つかの表現方法にも手をのばしてみた。

だが違和感しかなかった。
自分らしさが欠けているのだ。又は、欠けていくのだ。

 

それは表現においては致命的なことだ。
年若く早々と自分の表現を手に入れた人たちが羨ましかった。
少しの疑いもなく自分の魂を燃やしている姿が羨ましかった。
隣の芝生に目移りしない私がだ。
彼ら、彼女らの姿は美しかった。


そして、私はごく自然と、自分の中に空いた穴に気づき、多くの人がそうするように、

その穴を避けて進むこともなく、縁から覗くようになった。

「抗うこと」
自分の穴を覗いてしまうような人々には感じるものがある言葉だと、私は確信している。

穴をあまりにも覗き過ぎて、もっと見たいとその穴に飛び込んでしまう人もいる。

私はそうはならなくて幸運だ。

そういうことにも才能は必要だ。


だが対外的に表現をしているだけの奴らも多かった。
なんの為にしているのか私には理解出来なかった。

「好きだから。」

多くの人がそう言い、私は反論出来なかった。だが努力していない人間が多すぎた。

私にはその言葉だけでは足りなかった。

コミュニティを確保するためだけの行為に成り下がっていた。

私はその水では溺れたくない。

確固たる表現を持たない私は、自然と周りにそういう人々が多くなり、生き苦しかった。
そして自然とその集合体から消え、また移動しては消え、今に至った。
周りから人々はいなくなった。

本物はより遠くの世界に行き、私は真反対の方角へ歩いていった。

 

私の腕に彫られた、

What is the picture that you paint in the death of your life?

という言葉がそれを許さなかった。

この言葉を産み出したのは、まだ若い頃の私が成し遂げた唯一の偉業だ。

 

「お前は、自分の人生の最後にどんな絵を描くんだ。」

 

私は自分の描きたい絵が今は描けなくても、死ぬ間際に一枚、その絵が描ければいい。

そういう生き方をしようと思った。

いつの日か、その絵を描くことが出来る、そういう生き方を。

一枚でいい。

 

なんの為に抗うのか。

君が何を引き換えにでも手に入れたいものがあるのなら、抗うことだ。

手に入れたいものがとても大切で、また純度が高いと感じているなら、そうすべきだ。

私はそういう人を愛してる。だが仲良くなるとは限らない。大切なことだ。

 

本当に手に入れたいものは自ずと一つに絞られるものだ。

そういう性質なんだ。

ある時点まで絞れなければ、諦めたほうがいい。

ある時点、その有効期限は私にはわからない。そこも抗うといい。

 

生きることは、抗うことだ。

 

君はどんな絵を描くのだろう。

 

私がどんな絵を書くのか、まだ決まっていない。

それは必要のない答えだからだ。

 

 

追伸、

抗うこと、が説明できず、

自分のことを語ってしまった。そういうのはあまり好きじゃない。

自分の経験で説明するしかなかったからだが。

だが、タイトルを書いた責任上、ケジメをつけた。

説明する手段を持たないと、自分を語る羽目になる、という勉強にはなった。

これからもそういうことがありそうな予感がしている。

 

 

 

 

 

生きること、

一発目の記事なので、生きること、について書いてみたいと思う。

死生観を語ることで私という人間の味を、少しでも知ってもらえるだろう。

 

難しい話しをしようってわけじゃない。
人はなぜ産まれて、なぜ生きるんだろう、なんてこともどうでもいい。

せっかく触れたので私なりの回答を示そうと思うが、

産まれてきたから生きる。

人が生きる理由は、これに尽きるように私には思える。

 

産まれてきたからには自分のスタイルで生きて行くしかないのだ。

どのように死を迎えるか、それが目的だ。

自分のスタイルで勝負し、どのような死を手に入れられるか。

 

自分のスタイルで勝負する。

これが現代の人々には難しいように思えるが、近年、

そういった数少ない人々が、表舞台に出てきて人目につく機会が増えたと思う。

 

自分のスタイルを持っている人たちは大勢いる。

というよりいたるところで見かける。

だがそれはどれもファッションだ。情報をうまく操る魔術師たちだ。

勝負しているわけではない。

受け入れてもらうために本当の勝負を放棄している。

だが社会的な勝ちを得ている。それは大事なことだ。

 

本当の勝負ってなんだ?

それは人に嫌われることだ。

 

掛け値なしに打算のないスタイルで勝負すること。

そして死ぬときがきたら死ぬこと。

 

生きづらさを感じている人がいるなら、それはそういうことだ。

潔くなること。そして嫌われることだ。

勝負して居場所が無くなれば、また移動すればいい。

牧草が生えるのはそこだけじゃない。

世界は一つじゃないってことだ。どこかに必ず居場所はある。

それが例え、現世ではなかったとしても気にすることはない。

だが、移動するには準備と体力がいる。

 

打算して迎合してしまうと、世界は一つになる。

一気に集束してしまう。

狭い世界で一生、他人を気にして他人のために生きることになる。

気を使う、ってこととは違う。それは美徳だ。

何か起こっても移動することは出来ない。

君はその水でしか泳げない魚になってしまうわけだ。

水が悪くなろうが逃げることは出来ないんだ。

一昔前に大勢いた、繁華街とその周辺でしか肩で風切って歩けない中途半端なヤーさんもそうだ。彼らはそこでしか泳げないんだ。

 

気を使う、人とのいい関係を得るために努力をする、とても大事なことだ。

打算なんかじゃない。

だが、自身のスタイルを持たずにそういうことをやってると、いつの日にか奴隷になってしまう。

相手はそれを見透かし、君を評価しない。

そして搾取される。その対象は金だけじゃない。

君の未来と命だ。魂と呼べるものだ。

 

これぐらいにしておこう。

 

最後に、

私は嫌われるのが好きではない。

だが敵は大勢いるし、よく嫌われる。

だから一先ず良しとしている。

自分を肯定するための詭弁だなんて言わないでほしい。

私は嫌われるのが好きではないんだ。

ただ得意なだけだ。

 

追伸、

こういう少し前の偉そうな小説家みたいな口調、嫌いじゃない。