生きること、
一発目の記事なので、生きること、について書いてみたいと思う。
死生観を語ることで私という人間の味を、少しでも知ってもらえるだろう。
難しい話しをしようってわけじゃない。
人はなぜ産まれて、なぜ生きるんだろう、なんてこともどうでもいい。
せっかく触れたので私なりの回答を示そうと思うが、
産まれてきたから生きる。
人が生きる理由は、これに尽きるように私には思える。
産まれてきたからには自分のスタイルで生きて行くしかないのだ。
どのように死を迎えるか、それが目的だ。
自分のスタイルで勝負し、どのような死を手に入れられるか。
自分のスタイルで勝負する。
これが現代の人々には難しいように思えるが、近年、
そういった数少ない人々が、表舞台に出てきて人目につく機会が増えたと思う。
自分のスタイルを持っている人たちは大勢いる。
というよりいたるところで見かける。
だがそれはどれもファッションだ。情報をうまく操る魔術師たちだ。
勝負しているわけではない。
受け入れてもらうために本当の勝負を放棄している。
だが社会的な勝ちを得ている。それは大事なことだ。
本当の勝負ってなんだ?
それは人に嫌われることだ。
掛け値なしに打算のないスタイルで勝負すること。
そして死ぬときがきたら死ぬこと。
生きづらさを感じている人がいるなら、それはそういうことだ。
潔くなること。そして嫌われることだ。
勝負して居場所が無くなれば、また移動すればいい。
牧草が生えるのはそこだけじゃない。
世界は一つじゃないってことだ。どこかに必ず居場所はある。
それが例え、現世ではなかったとしても気にすることはない。
だが、移動するには準備と体力がいる。
打算して迎合してしまうと、世界は一つになる。
一気に集束してしまう。
狭い世界で一生、他人を気にして他人のために生きることになる。
気を使う、ってこととは違う。それは美徳だ。
何か起こっても移動することは出来ない。
君はその水でしか泳げない魚になってしまうわけだ。
水が悪くなろうが逃げることは出来ないんだ。
一昔前に大勢いた、繁華街とその周辺でしか肩で風切って歩けない中途半端なヤーさんもそうだ。彼らはそこでしか泳げないんだ。
気を使う、人とのいい関係を得るために努力をする、とても大事なことだ。
打算なんかじゃない。
だが、自身のスタイルを持たずにそういうことをやってると、いつの日にか奴隷になってしまう。
相手はそれを見透かし、君を評価しない。
そして搾取される。その対象は金だけじゃない。
君の未来と命だ。魂と呼べるものだ。
これぐらいにしておこう。
最後に、
私は嫌われるのが好きではない。
だが敵は大勢いるし、よく嫌われる。
だから一先ず良しとしている。
自分を肯定するための詭弁だなんて言わないでほしい。
私は嫌われるのが好きではないんだ。
ただ得意なだけだ。
追伸、
こういう少し前の偉そうな小説家みたいな口調、嫌いじゃない。